2009年12月25日金曜日

クリスマス

12月25日。Christmas day ですね。
中学・高校、そして大学とキリスト教の学校で過ごした私にとって、そして、人生の一時期クリスチャンだった私にとって、イエス・キリストの誕生を祝うこの日はやはりいろいろなことを思う日です。

今日は自分とキリスト教との関り合いについて思い出したりしていました。


私が初めて教会に行ったのは小学校5年生ぐらいの時だったと思います。きっかけはあまり良く覚えていませんが、当時父が脳血栓で倒れ左半身不随となり、普段の日は店で忙しく働く母は日曜日には父のいる病院に行っていたので、教会の日曜学校に通っている友人たちに誘ってもらって、はじめて教会というところに足を運んだのだと思います。

子供なのに超現実的だった私は、聖書の中の話を最初は全く信じることが出来ず、奇跡の話などを「ありえない」と思いつつ、冷めた視線を送っていたと思います。しかし、父が病気になるまでわがまま放題に可愛がられていた私は、自分の身の上に起こっている現実を受け入れることの難しさを次第に感じるようになり、それと同時に聖書の中の言葉に救いを見出すようになりました。

「疲れた者、重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい。私があなたを休ませてあげよう」(マタイの福音書11章25節)

今から思えば10歳そこそこの年齢で、このような言葉にグッとくるのはどうかと思いますが(笑)、いずれにせよ幼いころにキリスト教に出会い、自分の生き方というものを考えるきっかけが出来たことは、とても幸運でありがたいことであったと思います。

中学受験で選んだ学校はミッションスクールだったので、毎週日曜日には教会に行くことが必須でした。楽しいと思って通っていたわけではなかったと思いますが、まじめに毎週教会に行っていました。聖書の中に書かれているさまざまな言葉を聞くことで、その時々いろいろなことを考えていたのだと思います。今となってはほとんど思い出せません。

高校生の時、洗礼を受けました。以来、はじめてヴィパッサナー瞑想のコースに参加するまでの17年間、私は一応クリスチャンでした。教会にもあまり行かず、クリスチャンであることに迷いながらの時間の方が長かったと思います。

しかし、キリスト教、という宗教が身近にあったことで、私の生き方、考え方は大きな影響を受けたと思います。宗教、という存在があまり身近ではない今の日本人の中で、私は特定の宗教を持つ存在であった、ということがとても貴重な経験であったと思っています。

インドで参加したヴィパッサナー瞑想のコースには様々な宗教の人たちが来てました。シーク教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、クリスチャン、そして仏教と様々でした。ですから瞑想コースに参加したら改宗しなくてはならない、ということは全くありません。でも、私はもうクリスチャンであることが出来なくなってしまった。それは自分の中あった「信じる」という作業に対しての抵抗感に気が付いてしまったから、そして、私にとっては「信じる」という作業は「完全に腑に落ちていないからこその行為だ」ということがわかってしまったからでした。

瞑想を始めるまで、私にとって聖書の中の言葉は「信じる」か「信じないか」の対象であり、宗教でした。しかし、今、私にとって聖書の中の言葉は「真理である」という想いがとても強いのです。クリスチャンである、という状態を離れてからの方が、聖書の中の言葉に共感することが多々あります。仏陀の言葉にも素晴らしい、と思う言葉がたくさんあります。しかし、私はまだそれについてあまり多くを知りません。どちらかというと聖書の中の言葉の方が多く見聞きしています。なので、事あるごとに聖句を思いだし、この言葉はこんな意味だったのか、と今になって分ることがたくさんあります。それは「聖書に書いてあるから」ではなく、「真理だ」と感ずるからです。宗教、は後の世に他の人によって作られた形であって、キリストも、お釈迦さまも、宗教にしろなんて一言も言っていなかったと思うのです。悟った人はそんなことは言わなかったと。

今日はクリスマス。
愛を説いたイエスキリストの生涯を思って、自分の中にも少しでも「愛」を育てる日にしたいです。


私が好きな聖句を一つ、そして、今年瞑想センターで奉仕した時に教えてもらった仏陀の言葉を一つ。

まず聖書から。マタイ:7章1節~5節
「さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者たち。まず自分の目から梁をとりのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができます。」

そして、マッジマ・ニカーヤから。「正しい言葉」
「正しい言葉を使う者たちは、真実を話し、誠実で、信用がおけ、頼みになげ、他人に対して率直である。彼らはけんかを和解させ、和合を促す。調和に歓喜し、調和を求め、調和に喜びを見いだし、言葉を使って調和を生み出す。彼らの言葉は穏やかで、耳に心地よく、思いやりがあり、心温まる。また礼儀正しく、理にかなっていて、人々を喜ばせる。彼らは当を得た時に、事実に基づき、相手の助けになることを、ダンマと行動規範に沿って話す。彼らの言葉は覚えておくに値し、時宜を得ており、しっかりとした道理に基づき、よく選ばれた建設的なものである。」


✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾



今年のクリスマスは夫婦揃ってメサイアを歌う機会に恵まれました。なので、今年はいつもより、キリストの生涯について想いを馳せる時間が長くありました。同じくミッションスクールで中・高・大学を過ごし、瞑想を共にする夫ともたくさん話をしました。二人とも同じバックグラウンドだと言うのはとてもありがたいことで、私が「今日はこんなことがあってね。こんなことを考えたんだけど、これって聖書の中にあるあの話だよね。こういう意味の話だったんだ、ということがやっとわかったよ~」といっても、すんなりと通じるので、とてもスムーズなのです。

自分が日々の中で感じたこと、考えたこと、気がついたこと、を夫と話すのはとても楽しく、貴重な時間です。それについて意見を交わしたり、理解が間違っていれば助けてくれたり、新しい視点を提供してくれたり。これからも続く日々の学びのためのありがたい伴侶がいてくれること、なんて幸せなのだろうと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿

kominka

kominka
kominka