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2013年5月16日木曜日

恐怖

ちょっと前に、瞑想友達と話してて、とても興味深い話になった。

それは私自身の中にある「恐怖」という感情について話していた
時のこと。

人に嫌われたらどうしよう、とか、拒まれたらどうしよう、という恐怖。
あるいは”他人に受け入れられない事”への恐怖。

そういう類の恐怖が自分の中にすごくあるってことに気がついて、
やっとそれをあるがままに感じてみようという平静さを持てるように
なってきたんだよ~っていう話をしてた時に彼が言ってたこと。

「この『恐怖』という感情を持つとき、人は行動を止める。
行動することや、前に進むことを止める時、そこには必ず
「恐怖」という感情があるっていう風に言うこともできる、って
聞いたことがあるんだ。」


なるほど~、って思った。

何かに挑戦しようかと思っても、恐怖が頭をもたげると、
行動することを止める選択をする。

例えば、高い崖から下を見て、恐怖を感じれば、
その先に進むことを止めるし、恐怖を感じるからこそ、
そのまま進むことを止める。(恐怖という感情がなければ
そのまま歩いて、落ちて死んじゃうからね。)

この場合、死、への恐怖があるから自分を守ることができる。
自分を安全な場所に置いておくことが出来るのは「恐怖」の
お蔭。

こういう場合、安全な場所、安心な場所を選ぶことはとても
大事なこと。だって死んじゃうんだもん。

だけど、精神的な安全な場所、とか、安心な場所っていうのは
どうなんだろう。

これも、疲れた時や、今は無理って思う場合、「進まない」という
選択をすることがとても大事な時がある。無理することで自分が
耐え切れなくなることが分かってる時に、あえて挑戦を選ぶ必要は
ないと思う。自分がそれと向き合えるようになる、ということに
力を尽くす方が大事だと思う。あと、十分休んだりね。

けど、最近私個人的に思うのが「私、十分逃げてきたんじゃない?」
ってこと。「ずっとこのまま安心・安全から足を踏み出さないというのは
どうなんだ?それは私がやりたいことなんだろうか」って。

今まで私の新しい挑戦を足止めしていたときには、必ず「恐怖」
が共にあったんだな、ってことに気がついた。

なるほどね「今はまだ時じゃない」とか「まだ早い」とか
「私に出来るかな・・・」なんて思ってたのは、なーんだ、
自分が「怖い」っていう思いを隠すためだったんだ、って。

もういい加減、この恐怖をさんざん味わって、楽しんで、
手放す試みをする時なのかも、って感じてる。

自分が持つ「恐怖」という感情を受け入れてこそ、そこから一歩を
踏み出すことが出来るのかなって。

面白いね、こういうの。
ちょっとマニアックな面白さな気もするけど(苦笑)
(こういう「鍛錬系」なのが好きなところも、「なんだかな~」って
思ったりします、最近・・・。)




本日のクッキングサークルで作ったごはん
(山東菜の浅漬け、キャベツの胡麻酢醤油和え、なめたけおろし、きんぴら
小松菜とあぶらげの生姜醤油和え、玄米もちきびご飯&わかめの味噌汁)




2013年5月9日木曜日

只管打坐

【只管打坐】
余念を交えず、ただひたすら座禅すること。

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今年2-3月にかけて参加した、20日間の瞑想コース。
10日間以上のコースに坐るのは初めてのことでした。

昨年9月に10日間コースに参加した時、自分の中で、
長期コースに坐る準備が出来た、と感じました。それと同時に
10日間という期間では越えられない壁のようなものを感じました。

どうしても、頭で、理屈で、コントロールしている感じや、
理性で理解しようとしている感じが越えられない。
ただひたすらに・・・という部分がもっとやってみたい。

10日じゃ足りない、もっと長く。
そうして今年、20日間の修行をする機会に恵まれました。

朝4時半から夜9時まで、食事などの時間を除くすべての時間を
ただひたすらに坐る。来る日も、来る日も、視線も上げず、喋らず、
読まず、ただただ一人で瞑想する。

自分に起きていること、湧き上がる思考や感情を一生懸命
理屈で理解したり、整理したりしようとするんだけど、ある時もう
疲れちゃって、「もういいや!」って。

「もう十分やった。もういい」って思えた。なんか1つ壁を越えられた
感じがしました。

頭で考える自分の癖を心ゆくまで堪能出来て、もういいやって
なるまで実感できた。何事もバランスだから、少しバランスとれると
いいな。


只管打座。
ただひたすらに、ひたすらに。
まだまだ自分が知らない世界が果てしなく続いている、
その道を歩くのを楽しみに感じています。







2013年3月14日木曜日

戻ってきました

すっかり間が空いてしまいましたが・・・

この間、20日間の瞑想コースに行っていました。
久しぶりに日常生活に戻って、今はリハビリ中(笑)って感じです。


私の修行しているヴィパッサナー瞑想のコースは、まず
10日間コースに参加するのが第一歩となります。
「もっと短いコースないの~?」とか良く言われるんですけど、
参加した人は必ず”10日”必要な意味がよーく分かった、って
言う。本当に、良く考えられているコースだと思います。

コースの話をするとみんな「え~、きっと私なんて3日、
いや、1日ももたないな~」とかっていうのが、大体のコメント。

うん、わかる。
わたし、まさにそうだったから(笑)。

7年前初めてインドのセンターで修行した時の私は
坐るや否や、ムズムズして、苦しくなって、とてもじっとしてる
なんて無理。出来ない~(>_<)ってじたばたしたい気持ちを
ようやっと抑えても、きっと時間は5分も経ってない。

私このまま死んじゃったらどうしよう?とかそういう心配や不安

がいっぱいいっぱい出てきて、それでどんどん平静心なんて
失われるし。

根気もないから、1人で部屋で瞑想する時間なんて、すぐに

飽きて横になっちゃう。

そんな私を鮮明に覚えています。

でも、それでも7日目、8日目、と少しづつじっと座れるように

なって。

そして、コースの後も、家での瞑想も少しづつ出来るようになって。
坐れない気持ちの時もあったり、出来る時もあったり。そんな波も
全てありのままの自分。どんな心の状況でも「これも平静な気持で向き
合おう、無理はしないで」なんて思える自分になってきて。

20日間、1日11時間、朝の4時半~ひたすら瞑想をする、という修行を
淡々とこなせるようになった。まさか自分がこんなことが出来る
ようになるなんて。自分でも全く思ってなかった。

最初の自分をよーく覚えているだけに、すごく感慨深いです。

だれも、最初からこんなことできない。

出来ない自分を受け入れるところから始めて、少しづつ根気強く
繰り返していくとできるようになるんだよっ、ってことを私は自信を
持ってみんなに伝えたいです。

修行も無事終えて、春になって。
なんか嬉しいです。

2013年1月23日水曜日

正しい、ってこと

昨日のブログで

何か方針、とか、理念とか、そういう判断基準になるものが
存在して初めてそれに基づいて判断する、ということをするのだから、
何かの事実自体には色はついてないっていうか。色を付けるのは自分
だけ、っていうか。」って書きました。

その判断基準が

”常識”

だったり、

”普通”

だったりするってことがあると思うんだけど、それってそもそも
なんだ?って思う。


私はもともと「常識」とか「ふつう」とか、そういうことをとても気にする
人でした。

そんな私の目からウロコをいっぱい落としてくれたのが私の旦那さん。
こういう風に書くと誤解をされそうだけど、彼には「常識」とか「ふつう」
という枠がとても少ない(笑)。

常識的なことに重きを置く私と、常識に囚われない彼の、それぞれの
良さが調和してハーモニーを生み出すようになったのは、それがお互いの
良さだと自分自身で受け入れられるようになってからでした。



昨日、いつも私が自然農法のお野菜の宅配をお願いしている
ナチュラルハーモニーからとても面白いメルマガが来ました。

その中の一部の文章をコピペさせていただきます。

「感じることの前に、概念を埋め込む。
ザッとではありますが、概念教育の成果を書き並べてみましょう。

・ 美味しいと感じる前に栄養素が高い・低い、良い・悪いといったもので判断すること。
・ 子供の歯が生えてきたのを離乳の時期と思わずに、“何ヶ月から離乳”と決めつけること。
・ 作品を一度も実際に読むことなく、作者と年代ばかりをただひたすら暗記すること。
・ 病気の症状も体からの自然な反応、そう考える前に無条件に“悪いもの”だと
決めつけること。
・ フレンチ・中華・和食とタテ割りにされた枠組みの中に終始し、素材がどう
料理されたいか?などとは考えないこと。

私たちはたくさんの思い込みや概念で埋めつくされていると言えそうです。
その肥大化により、本来備わった五感、感覚器官と脳とをダイレクトにつなぐ
ことが疎かになっている。それでは決まり切った尺度でモノゴトを判断する結
果を生みやすいのです。」(引用終わり)


私たちは頭でっかちな夫婦でした。(今もそうかな-笑)
2人とも末っ子だったから言ってみれば”調子が良い”って感じ。
最小限の労力で、最大の効果を得る、みたいな。
「小手先」ともいう(笑)。

だからこそ、本や人の言ったことをに基づく「知識」じゃなくて
、自分の感覚器官を通じて培った「知恵」の大切さを今、改めて
感じています。

自分の身体に染みついた「借り物の概念」をどんどん削ぎ落として、
概念にとらわれない、臨機応変な柔らかい人になりたいな。

あっ、また「柔らかな人」っていうのが「良い」っていう判断を
してるね・・・


全てはバランス。

1人ではバランスが取れず傾いているように見えても、
全体では不思議なほど調和がとれてたりする。

ひとりで生きてるんじゃないね、ってつくづく思う。


2013年1月22日火曜日

優柔不断

私のことを知っている方なら、「私」のイメージと全く相反する
言葉と思うんではなかろうか、とすら思う「優柔不断」というワード。

即断、即決、即行動、が私のイメージじゃないかな?傍から見たら。
考える、熟慮する、ということはあっても、「決められない」ということは
今まであまりなかったように思います。

その私が最近、
「あれ?私、考えがあっちに行ったり、こっちに来たりしてない?」
「決めたはずのことをまた考え直して違う行動とってる??」
「あれやろう、これやろう、とちょこまか動いて結局何をやってんだ??」
ということが、立て続けに起こってます。

「効率悪いな~、最近。なんか全然地に足ついてない感じ~」って思った
次の瞬間「あーー、私、迷ってるんだ、決めることが出来ないんだ!」って
気が付いた。

「決めることが出来ない」。今まで自覚して感じたことのない感情です。
(もちろん、自覚しないで迷路にはまってたことはたくさんあると思うけど)

また新たな経験の扉が開いた感じ。
生きてるのって、楽しいね~(^-^)って思います。

私にとっての「決められない」っていうのは、言葉を
変えると「どっちが自分にとって正しいのかが分からない」という
こと。

どちらが善なのか、悪なのか。
どちらが正解なのか、間違いなのか。
それが判断できないから迷ってるんだと思うんだけど、
うーん、そもそも最近、「どっちが正しい、とかないんじゃん??」
って思うことが多い。

というか、正否とか善悪とか、そういう両極からなる考え方
自体どうなんだ?って思うことが多い。生きていくってことは
全ての瞬間で相反する考え方の一方を選択し、他方を選択しない
という行動を繰り返しているわけなんだけれど、「どちらで無くては
ならない」ということはないんじゃないか、と思うのです。

何か方針、とか、理念とか、そういう判断基準になるものが
存在して初めてそれに基づいて判断する、ということをするのだから、
何かの事実自体には色はついてないっていうか。色を付けるのは自分
だけ、っていうか。

例えば甘いお菓子をいっぱい食べることが善か悪か、なんて人それぞれ。
健康を害してる人とか、どうしても減量したい人とか、そういうことを改善
したいっていう人には「悪」かもしれないけど、それを食べられることが
豊かさの証だったり、今日はお祝い!だったり、愛情表現だったり、
っていう場合、それを「悪」っていうのはどうなの、だよね。

だからと言って、自分の健康を脅かすことに無知なままよりも、自分を
健やかに保つ方法は知っている方が良いようには思うけど、それを
知らないことが悪いかっていうと、知らないからこそ出来る経験っていう
のがある。身体に負担をかけるものをたくさん食べ続けたりして病気に
なったとしても、その経験を通して初めて気づくことが出来ることがあるん
だから、それもありじゃん、ってことだし。

そう考えていくと、何が良いとか悪いとか言ってること自体は意味がなくて、
それよりも、自分自身が何を「良い」と思い、何を「悪い」と思って生きてるのか?
に気が付いていくことだけ、のような気がする

去年の10日間瞑想コースに坐ってる時に、私の中にある「こうなるべき」
とか「こうなるはず」という思考パターンの存在に気が付いて、「おー、
私はずっとこういう色眼鏡をつけて生きてきたんだな」ってことに気付いた。

「体が健康なことが善」
「心が穏やかなことが善」
「この世的に見た幸せな生活、っていうのが善」
とかね。自然とその思考パターンに支配されてる。

今までも、健康なことだけが善ではないよな、とかって頭で理解は
してたけど、自分がどっぷり「善悪」を判断するその思考パターンに
はまってるという現実に気づいた時は、結構「お~っつ!!」って感じ
だった。

今優柔不断になってるのは、そういう思考パターンに気づいたから
のような気がしてる。今までは迷わず自分の「善悪判断システム」が
即起動してたところで、そのシステムが働かなくなってきたんだと
思う。

ということで、今私は結構優柔不断。
そんな私をエンジョイ中。
(とはいえ、周りの方たちにはそれでも即決に見える、と言われて
ますけど・・・笑)。



2013年1月17日木曜日

「生き方」

先日のブログで日経ビジネスに掲載されたの稲盛和夫さんの
言葉を引用させていただきました。

稲盛さんは言わずと知れた方ですが、2004年に刊行された
「生き方」という本は、日本のみならず、中国でも大変人気が
あるそうです。




「人としての正しい生き方」を語った本。

日経ビジネスのインタビューには、賄賂や横領が蔓延る中国で
なぜこの本がウケルのか。それは、中国人―その中でも権力に
よって多くの金を得ている人たち自身―が、その生き方に疑問
を感じながら生きてるからではないか、と書かれていました。


::::::::::::::::::::::::::


中国上海に暮らした2年間は、二言三言では言い表せない多くの
経験をさせてもらった時間でした。でも、あえてまとめるとすれば
多くの葛藤に悩み苦しんだ時間であり、しかしそのことを心の底
からから感謝しています。

点心を学んだり、布市場やセーター屋さんで服のオーダーをしたり、
中国茶の深さを知ったり、と楽しいこともありました。ですから、当時を
知る友人には「何がそんなに辛かったの?」と聞かれることも少なく
ありません。

「何がそんなに辛かったのか?」

何年もたって、それがようやく分かってきました。
それは「人として正しく生きるってなんだんだ!!」という、問題提起を
あらゆる場面で突きつけられていた時間だったからだと思います。

嘘をつく。
人をだます。
自分を守るためや、お金を少しでも多く得るために。

大声で人を罵る。
人前でも構わず人に手をあげる。物を投げつける。
感情を露わに、自分の主張をするために。

偽物を平気で売る。
ばれないように細心の注意を払い、
取り締まりがあれば、我先にと隠れる、逃げる。

日々経験することの一つ一つがまるでボディーブローのように
私の心にパンチを食らわせて、やがて「自分が人として
壊れていっている気がする」と感じるようになりました。

平気で大声を上げ、怒り、目の前の人に笑顔を向けられなく
なった自分。こんな人間ではありたくない。この思いは
私だけでなく、夫も同じように抱いていました。
そして、出会ったのが「ヴィパッサナー瞑想」でした。

とはいっても、友人に軽く話を聞いて、何の気なしに申込んだ
のがはじまり。まさか私が求めていた「正しい生き方」の
道がこんなにパーフェクトに示された修行だとは、これっぽっちも
思っていませんでした。

悟りへの道―八正道―に、何の気なしに出会えてしまった
私たちの運の良さには、自分たちでもびっくりですが、その
道の先にあるゴールには”何の気なしに”たどり着けはしない、
ということを日々噛みしめています。


中国で過ごした時間のお蔭で、私は自分が人としてどう生きたい
のか?という問いかけをもらえたし、自分の生きる道に灯を
燈してくれる瞑想法への導きをもらった。

これはなによりの贈り物。本当に心の底から感謝してる。

今思えば、中国で私の受けたボディーブローは日本でも
日常茶飯事起きていること。たまたま私はそういう出来事を
中国の地で経験しただけのことだ。

だから、稲盛さんの本は日本でも大反響なのだろう。
日本人も、いや人間なら誰でも「正しく生きたい」って
心の底で思ってるのだから。

2013年1月15日火曜日

2013年、スタート

2013年がスタートしました。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

千葉の古民家での生活、都心のマンションでの生活の
行き来で、まだまだ落ち着きの無い生活ですが、とても
充実しています。

充実しすぎてて、ブログに書く余裕も無いほどで、報告が
全く出来てませんが(汗)、少しづつ、日々のつぶやきを記事に
して行きたいと思います。


今年の目標をなにか定めよう、かと思うのですが、今自分が
大事にしていることの一つ一つを丁寧にこのまま続けて行くことが
やはり一番大切だと。

なので特別になにか「目標’というのはないのですが、敢えて言うならば、
日々の生活を大事に、ということでしょうか。

*************

新春号の「日経ビジネス’に日本航空名誉会長である稲盛和夫さんの
インタビューが掲載されていました。「中国とは『徳』で接せよ」
というタイトルが付けられています。

インタビューの中で孫文の神戸での公演の言葉を引用されていました。

「日本は明治維新を迎えて欧米の近代文明を取り入れ、繁栄を遂げようと
している。その欧米文明というのは覇権の文明、力の文明です。
しかし、東洋には、人間の徳で治めていくという王道の文明が
あります。欧米文明を取り入れて覇権の道を歩くのか、それとも
古来東洋に存在する王道の道を歩くのか。日本の将来は皆さんの
選択にかかっています。」

「徳」という言葉は、瞑想を始めて以来私にとって、とても大事な言葉です。
なので、このインタビューの内容にはとても興味をもちました。

旅行などでヨーロッパの王室や、その立派な建物や持ち物などを
みるにつけ、「覇権」「力」を示す文化、を感じます。そして、
それらをみて「すごいなあ」とか「素敵だなあ」と思うけれど、
私に取っては、日常の中の、人間がもっている徳にあふれた言葉
や行為に触れた時の心震える瞬間にはとうていかないません。

稲盛さんは日中関係について「人間性からほぐしていけば、時間は
かかるかもしれませんが、解決できるでしょう」と話されています。

一人一人の人間が徳を積む生活を心がけ、徳を持って人と接する時、
自ずと心は通い合う。これはこの世の摂理だと思います。

自分がそういう人間であることができるよう努力をすること。
それが平和で穏やかな世界を作る一番の貢献ではないかと思います。

”不徳の致すところ”ばかりの自分を省みながら、そんなことを
考えました。日々精進です。



2012年10月5日金曜日

「自由」について思うこと

大学時代の友人がtwitterで

「自分をコントロールしようとしてくる人にはかなり
反発心もってしまうな。絶対的な正しさなんてないのに。
あなたの正しさを押し付けられても困る。」

って、つぶやいてた。

これ、すごく心に響いた。
私はこう返信した。

「私もこの夏、このことを深く観察したよ。
自分の行動の、思想の自由を制限されることに
ものすごい嫌悪を抱いて生きてきたことに改めて
気がついた。

でも、嫌悪を抱く必要はないんだよね、ただ相手の
コントロールを受け取らなければ良いだけ。
平静な心はやはりステキです(*^^*)」

・・・・・・・・・

私は10代のころ、親が私に対して良かれと思って
やってくれることにすごく拒否反応を示していた。

例えば、私のために、と貯金をしてくれてたのを
「迷惑だからやめて!」と言ったりして。

そのやり取りをした時のことを明確に覚えていて、
私はその時の自分の興奮した様子まで思い出すことが
できる。

この夏、なぜ私がそれほどまでに嫌悪感を
抱いたのか、ということの答えにいきついた。

私は、親にお金を出してもらうことで、自分の自由を
制限されたくない!と思っていたんだ、ということに。

ちょっと考えてみれば、学費だって、生活費だって親の世話に
なっているっていうのに、なんと馬鹿げた反発だろう、って
思うんだけど。

あのころの私には、そんなことすら分かってなかったんだね。
愚かだわ~って思う(笑)。

私にとってお金=支配、という構図だったのだと思う。

私が真になにを望んでいたかと言えば「自由」なんだと思う。
行動の、思想の、自由。
私がやることを制限しないで!って言いたかったんだろう。

そして、思いっきり嫌悪を抱いて反発してた。
「力いっぱい」って感じで。

20年の後に、そのコントロールを受け取らない術を
修行することになるとは、まったく予想もしてなかったけど。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


"Hairspray"というミュージカルをN.Y.で観ました。
映画でもヒットしてたから結構有名ですよね。


 

その中に"Mama, I'm  A Big Girl Now"という歌があります。
(リンクをクリックすると音声でます-Youtube)

私はこの歌が大好きです。



これは歌詞の一節です。

Ma, you always taught me
What was right from wrong
And now i iust wanna give it a try
Mama, i've been in the nest for far too long
So please give a push and mama watch me fly


「ママはいつも私にものごとの善悪を教えてくれてたよね
いま、私はそれを試してみたいの
ママ、私は″巣″の中であまりにも長い時間を過ごしちゃったのよ
だからお願い、私を一押しして、私がはばたくのを見ていてちょうだい」


私は、自分が失敗する機会、痛い思いをする機会、
そこから学ぶ機会を誰にも奪われなくない!と必死だった。

そして母は、私が痛い思いをしないように、辛い思いを
しないように、と心をかけていてくれた。

母が亡くなった直後は「もう少し甘えたほうが親孝行
だったかな?」なんて思った時期もあったけど、かたくなに
反発していた自分をやっと理解できて、今、やっとその頃の
自分を受け入れられるようになった気がする。


自分の自由が大事なら、相手の自由も大事にしなくちゃ、って
そう出来ていない自分を反省するばかり、なのだけど。

でも、少しづつ進んでいると思いたいです。

2012年10月4日木曜日

飾り気がない、こと

1つ前の記事で、瞑想の先生方があまりにも「ふつう」で
飾り気がない、って書きました。

ふつうでつまんない~、とか、そういう意味では全然
ありません(笑)。

むしろ、普通、であることのすごさっていうか、まったく自分を
背伸びしたり、大きく見せようとかしないことのすごさ、
っていうか。

まさに「自然のままに」って感じ。

それってすごいことだよな、っていつも思います。。
そういう素晴らしいお手本がそばに居てくれることって
とてつもなくありがたいことだって思う。

そして、そうではない自分=背伸びしたり、飾ろうとする
自分に気が付く。そういう自分ってダメじゃん、っていうことじゃなくて、
今の私はそうだな、って。

瞑想仲間と一緒にいると、自然のままでいられることが
多いと感じます。。だから、すごくホッとするし、表現悪いけど
「なーんにも考えてない」感じがする。どう見せようとか、
そういうことに全く頭を働かせてない、っていうか。

そして、それがもっと感動なのが、自分が自分らしさを
発揮して、仲間もその人らしさを発揮してると、なんか、
思いもよらぬほど、うまーく調和がとれてるってこと。

1人じゃ到底できないことが、こんなに素晴らしく美しく実行
されちゃうんだ~♪って、感動さえしてしまう。


全体を俯瞰することが得意な人もいれば、細かいことを
こなすのが得意な人もいる。身体を動かして働くことが
得意な人もいれば、事務仕事が得意な人もいる。

仕事がとにかく早いタイプもいれば、じっくり取り組むタイプもいる。
話したり交流をするのが好きな人もいれば、黙々と1人で
こなすのが好きな人もいる。

ありのままを受け入れて、お互いの自由を敬うとこんな世界が
あるんだよ、っていうことを、目の前に「ほらねっ」って広げられてる
感じ。


私はこういうことに深い感動を覚えるタイプ、なんだね~って思う
今日この頃です。


2012年10月3日水曜日

天真爛漫


<天真爛漫 >
飾らず自然のままの姿があふれ出ているさま。
生まれつきの素直な心そのままで、明るく純真で無邪気なさま。
▽「天真」は純粋な性格、「爛漫」は自然のままに輝き現れる様子。

・・・・・・・・・・・

瞑想の指導をしてくださる先生や瞑想を長く続けている方たちと
親しくさせていただくようになって、その姿をみて思った言葉、
それが「天真爛漫」でした。

今まで、日常生活の中でこの言葉を使ったことって
あまりなかったけど、もう”この言葉しかないよね”って
ぐらいピタッとくる感じ。

私の中では瞑想って、あるいは「中庸」とか「平常心」とか
「バランスのとれた心」って、なんだかちょっと高嶺の花っていうか、
高尚な感じっていうか。そういう”ありがたい”って感じがしてた。

だから、瞑想続けてると、偉い人、とか、ちょっと難しいこと言う人、
とか、そういういわゆる「オーラがある」みたいな人になっていくのかな?
なんて思ってたし、そういう理想を心に抱いていたように思う。

でも、先生方とかって全然そうじゃない。
あまりにも普通、っていうか、あっけないほど飾り気が全くない。
ちょっとこちらがびっくりするぐらい。

そんな中で思ったことは、修行をする行く末、人は「一つの完成形」
のようなものに近づいていくのではなくて、人は一人ひとり
自分らしさを完全に開花させていくんだ、ってこと。


ひとつひとつ結び目から解放されて、自由になることは
すごく素敵なことだと思う。その機会を一人でも多くの人が
享受できたらいいな、って思う。


2012年9月27日木曜日

ロングバケーション

8月1日から、9月17日まで、ロングバケーションしてました。
夫の転職の間の休養期間。

ということで、ブログもそっくりそのままサボってました(笑)。

8月前半は修善寺の温泉に行ったり、千葉の家にいたり、夫の実家に
行ったり、という感じですごし、その後8月14日から9月3日までイギリスと
スペイン(カナリア諸島)に出かけました。

そして、9月6日から17日までは瞑想の10日間コースに参加。

1か月半のお休みはあっという間でした。

美しい景色を見て、おいしいものをたくさん食べて、友達とも
楽しい時間をすごしてきました。

ただ、実は一番心休まる、穏やかな幸せを感じたのは、瞑想の日々でした。


「美味しいものを食べるのが一番の幸せ!」とか、
「きれいな服を着て、お買い物をするのが幸せ!」とか、
女の子なら(いや、男性でも)そういうの良くありますね。

でも、私はどうしてもそれを心から、なんの疑いものなく
言葉にすることは出来ませんでした。なぜなら本当にそうは
思っていない自分を感じているから。

美味しいものは世界中で食べた、というほど食べたし、
楽しい場所にも行きました。素敵な道具や、好きな家具
などにも囲まれて、私は本当に快適な生活を送らせて
もらっています。

深く、深く、感謝の思いがわいてきます。
その私が、虚しさを感じているとしたら、いったいなぜなんだろう。


心地よいことは、さらにもっと心地さを欲するとき
またはそれを失う時には苦しみでしかない。

嫌なことが起こる時は、それはもちろん苦しみ。

だから「すべては苦しみでしかない」という仏陀の教えに心から
「そうなんだなぁ」と。
最近はそれを少しづつ少しづつ噛みしめています。



ヴィパサナー瞑想法のHPにこんな文章が載っています。
「どこの世界を探しても、望みが常に叶い、すべてが思いのままになり、
いやなことが何ひとつ起こらない人などいません。

ものごとは私たちの意志や希望に反して起こり続けます。
では、嫌なことが起こったときに反応しないでいるにはどうすれば
いいのでしょうか?心に緊張を生まず、安らぎと調和を保ち続ける
にはどうすればよいでしょうか?」



今回、瞑想10日間コースの間に誕生日を迎えました。
41歳になりました。

静寂の中で、ただ今を感じるよう努めながら、穏やかな心で
迎えられた誕生日は、なんとも本当に幸せでした。


お休みも終わり。
日常の生活に戻ります。
淡々と、穏やかに暮らしていきたいと思います。





kominka

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