2013年5月16日木曜日

恐怖

ちょっと前に、瞑想友達と話してて、とても興味深い話になった。

それは私自身の中にある「恐怖」という感情について話していた
時のこと。

人に嫌われたらどうしよう、とか、拒まれたらどうしよう、という恐怖。
あるいは”他人に受け入れられない事”への恐怖。

そういう類の恐怖が自分の中にすごくあるってことに気がついて、
やっとそれをあるがままに感じてみようという平静さを持てるように
なってきたんだよ~っていう話をしてた時に彼が言ってたこと。

「この『恐怖』という感情を持つとき、人は行動を止める。
行動することや、前に進むことを止める時、そこには必ず
「恐怖」という感情があるっていう風に言うこともできる、って
聞いたことがあるんだ。」


なるほど~、って思った。

何かに挑戦しようかと思っても、恐怖が頭をもたげると、
行動することを止める選択をする。

例えば、高い崖から下を見て、恐怖を感じれば、
その先に進むことを止めるし、恐怖を感じるからこそ、
そのまま進むことを止める。(恐怖という感情がなければ
そのまま歩いて、落ちて死んじゃうからね。)

この場合、死、への恐怖があるから自分を守ることができる。
自分を安全な場所に置いておくことが出来るのは「恐怖」の
お蔭。

こういう場合、安全な場所、安心な場所を選ぶことはとても
大事なこと。だって死んじゃうんだもん。

だけど、精神的な安全な場所、とか、安心な場所っていうのは
どうなんだろう。

これも、疲れた時や、今は無理って思う場合、「進まない」という
選択をすることがとても大事な時がある。無理することで自分が
耐え切れなくなることが分かってる時に、あえて挑戦を選ぶ必要は
ないと思う。自分がそれと向き合えるようになる、ということに
力を尽くす方が大事だと思う。あと、十分休んだりね。

けど、最近私個人的に思うのが「私、十分逃げてきたんじゃない?」
ってこと。「ずっとこのまま安心・安全から足を踏み出さないというのは
どうなんだ?それは私がやりたいことなんだろうか」って。

今まで私の新しい挑戦を足止めしていたときには、必ず「恐怖」
が共にあったんだな、ってことに気がついた。

なるほどね「今はまだ時じゃない」とか「まだ早い」とか
「私に出来るかな・・・」なんて思ってたのは、なーんだ、
自分が「怖い」っていう思いを隠すためだったんだ、って。

もういい加減、この恐怖をさんざん味わって、楽しんで、
手放す試みをする時なのかも、って感じてる。

自分が持つ「恐怖」という感情を受け入れてこそ、そこから一歩を
踏み出すことが出来るのかなって。

面白いね、こういうの。
ちょっとマニアックな面白さな気もするけど(苦笑)
(こういう「鍛錬系」なのが好きなところも、「なんだかな~」って
思ったりします、最近・・・。)




本日のクッキングサークルで作ったごはん
(山東菜の浅漬け、キャベツの胡麻酢醤油和え、なめたけおろし、きんぴら
小松菜とあぶらげの生姜醤油和え、玄米もちきびご飯&わかめの味噌汁)




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kominka

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