2011年3月31日木曜日

奉仕、について

先日テレビで「ボランティアは自己完結型でなくては
ならない」ということを話していらっしゃる方がいました。


ボランティアとして被災地に行く場合は、食糧、寝る場所
などを自分で確保できる状態で向かわなくてはならない、
というお話でした。

そして、それに加えて「健康に不安がある人は現地に向かう
べきではない。精神的ショックから持病が再発して、迷惑を
かけたり、または、『被災者の方のために』という思いは
分かるけれどそれで頑張りすぎて疲れてしまって倒れたり、
と言うことは、結局迷惑をかけてしまうことになるんです」
とおっしゃっていました。

私は、このお話を聞いて、瞑想センターでの奉仕の際に
先生から繰り返し言われることに似ているな、と感じました。


瞑想センターでの奉仕はパーラミー(徳)を積むため
の修行の一部です。

自分の時間、自分の行いを、瞑想をする生徒さんのため
に使うことは自分の時間・行いの寄付であり、布施でも
あります。全ての人が、指導をしてくださる先生も
報酬を受け取らない全てボランティアで行われます。


奉仕の最中には、忍耐、努力、愛を持って行動すること、
などが必要です。それらはすべて人格を完成するために
必要な徳の要素です。奉仕者として働きながら、それら
の徳を育てるという修行なのです。



瞑想センターでの奉仕の際に、必ず見るビデオがあります。
その中で「利己的でありなさい。この行動が、この言葉が、
この奉仕が自分の徳を積む行為であるか、常に自問しながら
奉仕をしなさい。」と言われます。

最初、この言葉を聞いた時はびっくりしました。奉仕者として
参加するのに「利己的であれ」というのはいったいどういうこと
なんだろう、と。

しかし、奉仕をしていく中で、この言葉の意味がだんだんと
分かってきました。

自分が身体が、そして心が健康・健全でない時、奉仕する
みなさんのことを第一に考えることは大変難しくなります。
その行為をすることが、相手にとっての幸せであり、そして
同時に心からの自分の幸せなのだと思えないのであれば、それは
正しい行為ではありません。

また、自覚はないかもしれませんが心の奥に何か見返りを
求めるような気持ちがあればそれは、純粋な気持ちでの仕事
ではありません。

これらはいずれも自分の徳を積む行為にはなりません。

また、反対に、純粋な愛情に溢れて「どんなことでもしてあげたい」と
いう思いが強すぎて、自分の体力や健康状態を圧してまで仕事を
優先した時、身体は、心はオーバーヒートしてしてしまいます。
結局周りの人のお世話になることになってしまいます。

これも、相手を助け、同時に自分の徳を積むという行為には
なりません。

自分の中に不純な気持ちがあったらそれに常に気がつきながら、
それでも出来うるかぎり自分の中の純粋な奉仕の気持ちを鍛える
ために、奉仕をするのです。

ですから、どんな時でも、今の自分の状況を知る、という仕事
を最優先にしなくてはなりません。疲れたら休むことが自分の
ためであり、同時に周りの人のため。

無理が重なった不健康な心では良い奉仕をすることは出来ない
のだから、出来る限り休む時間をとりなさい、と先生に繰り返し
言われるのも、こういう理由なのだと、やっと分かってきました。


常日ごろから、自分の健康に責任を持つこと。そのために
自分が出来ることを、試行錯誤しながら取り組むこと。

自分の心や身体がいつも良い状態に保てるよう心がけていく
ことは、同時に周りの人のためであるのだな、と改めて実感
しています。


瞑想を始めるまで「奉仕」とか「寄付」とかいうことに
とても疎かった私。とても恥ずかしいことですが、阪神
大震災の時、自分がどのように被災地に心を寄せたのか
全く覚えていません。


本当に少しづつではありますが、自分の中に慈しみの
気持ちが育っているように今回は感じています。

今回の出来事はとても辛いことですが、この機会を
無駄にせず、自分中にある小さな小さな慈しみの心の種
を育てていけたらと思います。



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先日のブログに載せました通り、昨年6月からお休みしており
ましたクッキングサークルを再開することにいたしました。


クッキングサークルをこの時期に再開できることは、とても
幸せなことだと感じています。


身体が健康であること。
バランスのとれた心であること。
それを作る大事な要素の一つが食事だと思います。

そのメッセージを共に食卓を囲む仲間に伝えられたら、と
思っています。

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kominka

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