2011年6月22日水曜日

『幸い』は本当に『幸い』なのかしら?

先日、NHK「鶴瓶の家族に乾杯!」という番組を少しみました。
新潟県小千谷市を訪れる旅の模様が放送されました。

小千谷市は7年前の中越地震で甚大な被害をうけましたが、
そこから復興し、今回の地震&原発の被害を受けた福島県
南相馬市から避難されている方たちを受け入れました。

地域の公民館などで避難生活を送っていらっしゃった方たちが
お話しされている姿が放映されていました。

南相馬市から非難されている方たちは、小千谷のみなさんが
本当に親切で、昼夜を問わず支えてくれたことを感謝している、と
涙ながらに話しておられました。

そして、それを受けて小千谷市の職員の方が、「7年前の地震の
時、全国から支援をいただいて、復興することができた。
我々はただただその恩返しがしたいだけ。『感謝』だなんて
めっそうもない」とこちらも涙ながらに話されていました。

私はこの場面にとても感動しました。

今回の震災は本当に大きな傷跡を日本列島に残したけれど、
助けあいの気持ちや、恩返し、感謝、など一番大事な心のあたたかさ
というものを思い起こさせ、それを行動にするきっかけを与えて
くれたように思います。

人と人とのあたたかい交わり、心の通い合う素晴らしさ。
そういうことってやはり、なによりも感動します。


感動しながら、私はこんな風に考えました。


「小千谷市の職員の方が涙ながらに『恩返しがしたかっただけ』
と語った裏に、どれだけの苦しくつらい経験があったのだろう。

その辛さ、そして大変さを経験したからこそ、その時人から
受けた支援、恩、がこの方の心に深く深く染み入ったのだろう。

だから今回つらい思いをされている方たちに何の見返りも求めずに
手を差し伸べることができる、深い深い慈悲の心をもっておられる
のだろうな。」


慈悲の心、ただ相手のことだけを思い愛の手を差し伸べる。


私は自分の中にこの要素が本当に足りない、ということを最近
強く痛感しています。
エゴが、自我が、行く手を阻みます。


今回の震災。
「幸いにして」私はなんの被害も受けませんでした。
もちろん、全く影響を受けなかったわけではないけれど、
普通に生活できています。


でも、これが本当に「幸い」なのか。


自分が本当に苦しいときに、人が差し伸べてくれる手の
温かさに深く深く感謝し、それを次の時には誰かに同じことを
してあげたい、という強い思いを抱く経験ができたわけでもない。

自分が苦しい思いをすることを通して、「ただただ恩返しが
したい」という見返りを求めない深い愛情を行動に表す、という
経験ができたわけでもない。

自分が今回の震災で無事だったことは本当にありがたかった。
でも、私は無事だったからこそ、深い慈悲の心を知るという
経験はすることはなかった。

エゴを洗い流し、それによって深い慈悲の心を知る経験を
する機会を逸した-私はこんな風に考えました。


でも。


じゃあ、こういう経験をしなくてはが慈悲の心を育てる
事はできないのか?よく考えてみると、そうとは限らない
のではないかと思ったのです。

本当は、日々の生活の中で、私は多くの人に支えられて生きていて、
常にあたたかい手を差し伸べてもらっている。私は一人では生きら
れないし、何をするにも誰かが力を尽くしてくれた結果を享受して
いる。

そもそも、私は両親の愛情のお陰ですくすくと成長し、家族に
見守られて育ってきた。好きなことをさせてもらい、学校にも
通わせてもらい、今は夫に支えてもらって、自分の自由に
日々を送らせてもらっている。


それに気が付けてないのは、自分の無知のせい。
気が付く能力が足りないせい。
事実をきちんと見る力が足りないだけなのだ。


ヴィパッサナー瞑想の「ヴィパッサナ」とは「ものごとを
ありのままにみる」という意味。

瞑想は、自分の体の枠組みの中で、自分の体に存在している
感覚をくまなく観察する作業。さまざまな感覚―時には気持ち良い
、好ましい感覚、時には気持ち悪い、嫌な感覚、そして時には
気持ちよくもない、気持ち悪くもない「ふつうの」感覚―を感じ
ながら、どんな時も冷静であり、客観的であり続ける修行。


指導の中で繰り返し言われる言葉。

「気持ち良い、好ましい感覚を使って『渇望』という汚濁を
取り除き、気持ち悪い、嫌な感覚を使って『嫌悪』という汚濁を
取り除きなさい。そしてなんでもない普通の感覚を使って『無知』を
取り除きなさい。」


私の周りには常にあたたかく私を支えてくれる手があり、私を
守ってくれている人たちがいる。そして私を受け入れてくれ、
許し、励まし、導いてくれる人がいる。

そのことにもっともっと敏感でなくてはいけない。
自分の「無知」を滅ぼさなくては。


瞑想の修行はこんなふうに私に気づく力を育ててくれるのかも
知れない。

瞑想を続けるとどんな良いことがあるのだろう?と聞かれても
いつもなんだかはっきりしない答えしか言えないのだけれど、
もしかするとこういう力を育てるものなのかも・・・という
気がしています。


自分が日々、穏やかに日常を過ごすことができることに感謝
しつつ、そんな中でも常に”平和ボケ”せず、「気が付いている」
ことが出来るように。

やはり日々修行なのだ、と思うのです。

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kominka

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