2010年4月27日火曜日

ありのままを受け入れる・・・って。

よく「ありのままの自分を受け入れる」とか「人をありの
ままにうけとめる」とかっている表現を時々聞きます。


先日夫とこの表現の言わんとするところについて
しばらくの時間、話をしました。


「ありのままに受け入れる」ってどういうことだろうか。


サティパッターナスッタのコースでこのような言葉を知りました。


・・・・・・・・・・・

快い感覚を感じながら、「快い感覚を感じている」と
正しく知り、不快な感覚を感じながら、
「不快な感覚を感じている」と正しく知り、快くもなく
不快でもない感覚を感じながら、「快くもなく不快でもない感覚を
感じている」と正しく知る。

快い感覚を執着をもって感じている時は、
「私は快い感覚を執着を持って感じている」と正しく知り、
快い感覚を執着を持たずに感じている時は、
「私は快い感覚を執着を持たずに感じている」と正しく知る。

不快な感覚を執着を持って感じている時は、
「私は不快な感覚を執着を持って感じている」と正しく知り、
不快な感覚を執着を持たずに感じている時は、
「私は不快な感覚を執着を持たずに感じている」と正しく知る。

快くもなく不快でもない感覚を執着を持って感じている時は
「私は快くもなく不快でもない感覚を執着を持って感じている」
と正しく知り、
快くもなく不快でもない感覚を執着を持たずに感じている時は、
「私は快くもなく不快でもない感覚を執着を持たずに感じている」
と正しく知る。

(中略)

このように比丘は、ただ気づきと理解がある境地に至るまで、
その気づく力を育てる。そして、この(精神と物質の)世界の
何ものにもとらわれず、執着しない

・・・・・・・・・・・・


人がある事象に出会ったとき、身心が辿る道筋は

認識

判断(良いor悪い、快いor不快などの善悪の判断)

感覚(実際の身体の感覚として生じる)

反応、反発

だそうで、初めて聞いた時には「???」でしたが、なるほど、
この「認識(気づき)」の他になにもない状態に至るように
「認識」の部分を鍛錬するのがこの修行なのだとわかってきま
した。


物事に対しても、他人に関しても「善悪」の判断せず、ただ
「認識」をする。

これが「ありのままを受け入れる」っていうことなんだ!と、
私なりに「頭では」納得。


しかし、これはとても大変な修行です。
今までの心の癖でどうしても判断→反応を繰り返す。
でも、それが「ありのままの自分」。

自分が「反応している」ことに気がつくこと、が大事。
反応している自分を否定しない、判断しない。

この時大事なのが「感覚」と共にあること。
これがこの修行の大事なところ。


千里の道も一歩から。
しかし、わたしの一歩はあまりにも小さい~!(>_<)


✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾✾

コースの中で、とても印象的なお話がありました。

自分が執着を持っているかどうか、はどうしたら分かるか?

例えば1時間まじめに瞑想しよう、と心に誓い、瞑想をする。
1時間の瞑想中、心は彷徨い、集中しようと努めても出来なかった。
1時間後私はどう思うか?

「あ~ぁ、集中出来なかった~、うまく出来なかった~(ため息)」
あるいは
「自分は自分が出来るベストの努力をした。
でも集中は出来なかった。よし、また次頑張ろう!」

前者は執着を持って瞑想をしている、後者は執着はない。

この話は私の心にストン、と落ちました。
日常生活の中でもこのような経験が日々、あるからです。


ビギナーズラック、って言いますが、ビギナーは結果に
執着がないんですよね。だから良い結果がおのずからついてくる。

こういう世の中の「法則」って本当に不変の真理なんだなあ、
って思います。

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kominka

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