2010年4月26日月曜日

努力しない「努力」

3月から4月にかけての参加した瞑想コースでは、
「サティパッターナスッタ」という、ブッダが
ヴィパサナー瞑想法について詳しく説いた経典を
学ぶ時間がありました。

その中で、いくつか印象的なことがありました。
一つは、「努力しない」という「努力」という言葉
でした。

仏陀は、悟りの七つの要素について語られています。
その中の一つ「努力」の部分でこう言われています。


自分のうちに悟りの要素である努力がある時、
「内に悟りの要素である努力がある」と正しく知り、
自分の内に悟りの要素である努力がない時、「内に
悟りの要素である努力がない」と正しく知る。

(努力についての言葉はまだ続きますが、
引用はここまでにします)


私はどちらかということ「努力」する性質が強い方だと
思います。常に「よりよい状態」「効率的であること」
「うまくいくこと」を求める性質が強い。

しかし


今回のコースでこのことについての解説を聞いて、
目からうろことはこのこと、という感じをうけました。

「ここでいう努力とは、『何かをしよう』という習性や、
反応・反発する習慣を打ち破るための努力」であるというのです。


つまり「何もしない努力、反発をしない、という努力、
起こることをただ、正しく観察する、という努力」
「起こるがままに反発せず受け入れる努力」なのだと。


これは怠惰とは違う。バランスのとれた緊張感を持って、
バランスのとれた努力を持って、「観察をする」。


私は自分自身、これがとても苦手だと感じています。
瞑想に出会って5年、私がまじめに努力しすぎてバランスを
崩しがちである傾向は少しづつ気がついてきました。

瞑想の中からも、日常の生活の中からも、そう気づく機会が
何度もあります。

なので、こうして言葉で説かれると、深く深く納得するしか
ありません。


なにかの「結果」を求める傾向が強くなる時、
「ありのままの現状」を観察する傾向が弱くなります。

心が「今」を生きていない時、ふらふらと宛のない未来を
妄想するのは、それはそれは不安定なことでしょう。

だから「今」を観察する力を強めるための修行をする。
心がさまよい出ないように、「今」を生きる力を養う
ための修練をする。

これが瞑想を通じてやっている自分の心のトレーニングなんだなあ、
と思います。


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瞑想のコースに行くと毎回、考えることがあります。

私はバッチフラワーレメディのプラクティショナーですが、
「この瞑想をきちんと修行し、続ける限り、レメディを
使う必要性は感じない」ということです。

ですから、自分がそう思っているものを人に提供することが
はたして良いのかどうか、ということを考えるのです。

そして、いつも同じ場所に戻ってきます。

私自身が、今を観察する力、それを支える平常心、
真実を見る能力、そして心の平安を分かち合いたいという愛を
自身の中にはぐくんでいなければ、どうやって、良い時間を
提供できようか。


自分自身がそうであったように、誰もがこの瞑想法に
すぐにたどりつけるわけではない。だから、それならば
少し違う方法で自分自身の心を観察する時間を持ってもらう
機会を提供できたらどんなに素晴らしいだろう、と。

私がバッチフラワーレメディが好きな理由は
今、現在の自分と向き合う、という事が大事だからです。
「どんな自分になりたいか」とか「何を変えたいか」ではなくて、
今の自分はどうなのか、ということを観察する。

自分自身を観察することすら難しいのですから、
クライアントさんの手助けをするには、何より自分が
その努力をしていなくてはいけない。

そんなわけで、私は、バッチフラワーにも、
瞑想にも出会えてよかった、と思うのです。

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kominka

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