2011年11月28日月曜日

「疑い」という”不純”

今年5月に瞑想の10日間コースで坐った時に、瞑想を始めて以来
初めて気がついたことがありました。

それは「疑い」というのは心の”不純”であるということでした。


今まで数回10日間コースなどを坐りましたが、その最中に毎回必ず大きな「不安感」や「疑いの気持ち」が湧き上がり、私はそれに圧倒されてきました。その気持ちを受け止めることができず、完全に平静さを失っていました。

普段はそんなに不安や疑いの気持ちに苛まれることはないのですが、コースに参加して瞑想が深くなっていくにつれ、毎回このような気持が湧き上がってくるという経験が繰り返されて、やっと、「もしかして、これは私の中にある”パターン”なのではないか?」と客観的に受け止められるようになってきました。

具体的には

「私がやっているやり方は間違っているのではないだろうか」

「本当にこれで良いのだろうか?」

「みんなは正しく出来ているのに私は出来ていないからいつまでたっても進歩がないんじゃないか」

というような気持ちが大きく大きく膨らんできて、その力に圧倒されてしまうのです。完全に平静な心を失います。

しかし、やっと今年になって

「まあ、いいか、この修業はどうせ一生続けていくんだから、やり方が間違ってたならそれに気が付いたときに直せばいいんだし、他のみんなが出来て私が出来なくったって、私が一歩でも進むことが出来ればそれで良いんだし。気長に、気楽にやろっと♪」

と思うことが出来たその時、心は本当に穏やかで安らかさに満ちました。

そして、その日の夜の講話の中にこのような言葉がありました。
「疑惑は大きな敵。心が疑いの念にとらわれている限り、この道を一歩も歩みだすことはできない。疑いは心のimpurityなのです。」

この修行法への疑い、そして何より「自分自身への疑い」。そしてそこからくる不安。これが心の"impurity"(不純、不道徳)なのだと語られたその言葉は私の心にグサリと突き刺さりました。

私はこれまで自分自身をこれほどまでに疑ってきたのだ。そして同じように周りの人、周りの世界も疑ってきたんだ。

それを認めることができた瞬間でした。

怒りや嫌悪、憎しみなどは”不純”だと思ってた。
でも「疑い」が”不純”だとは全く思っていませんでした。
そしてその不純は私の心に深~く深~く根を張って、大きく大きく成長し、私はその”不純さ”に絶え間なく振り回されていたのです。

ああ、なんという無知。

ヴィパッサナーとは「正しい方法で見る」という意味。
無知を克服する修行です。

私はまだ全く”盲目”の状態なのだな、と改めて感じます。

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10日間コースでは毎晩1時間ほどの講話を聴きます。これは自らが実践している修行をより良く理解するためのもので、毎回参加するたびに同じ内容のものを繰り返し聞きますが、不思議なことに毎回新しい気付きがあり、まるで初めて聞くような内容にびっくりすることがあります。

この時もまさにそう。何度も、何度も聞いているはずなのに、こんなに胸に突き刺さったのは初めてのことでした。

こんなことが起きるのは、私がそのことについてきちんと理解できるだけの”経験”をしていないからなんですね。自らの身を以て体験してたことだけしか理解することは出来ない。

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今年見た映画。「アメイジング・グレース」
(音声鳴ります)

この映画、好きな俳優さんが出ていたこともあって喜び勇んで見に行きましたが、感動で心が震えました。

正しい心、正しい生き方、人として正しい道とは何か、深く心に刻まれました。

奴隷を運ぶ船の船長を20年務めてきた男が、その罪を悔い、神職に身を捧げる人生を送りつつ書いたのがこの歌詞だそうです。

Was blind, but now I see
「見えなかった目も、今は開かれた」

私も、少しでも”正しく見える”人になりたいと、
これからも修行を続けようと思います。

≪Amazing grace≫

Amazing grace! how sweet the sound   驚くほどの恵み、なんとやさしい響きか

That saved a wretch like me        私のようなならず者さえも、救われた
I once was lost, but now am found       かつて私は失われ、いま見出された
Was blind, but now I see.                     盲目だったが、今は見える(心、たましいの目のこと)

'Twas grace that taught my heart to fear    私のこころに畏れることを教えたのは恵み
And grace my fears relieved                     そして、私の恐れを解放したのも恵み
How precious did that grace appear        なんと素晴らしいことか
The hour I first believed                           私が最初に信じたときに現れたその恵みは

(この訳はamazing grace storyというページを参考にさせていただきました)







2 件のコメント:

  1. こんにちは、ひろこさん。のび太(ダンマ・バーヌでのニックネームです)といいます。僕もヴィパッサナーをやっています。次回のサティパッタナ・スッタ・コースを受けようか、ちょっと思案中です(^^;
    今月5度目の10日間コースを受け、ようやく「平静」がわかり始めました。気づきが欲しくてコースを受けていましたが、運よくコース前の奉仕で「平静」という言葉を他の奉仕者から耳にしており、意識してコースを受けることができ、「反応」がそれまでのコースよりもずいぶん小さかったという体験をしました(^^)

    ひろこさんに感じることがあり、ちょっと記入させてもらおうと思い投稿しました。
    次の段階の気づきがきてるように感じました。
    「わたし」というものに固着する度合いが高いように感じます。「わたし」とは何なんでしょう?自分の中で感じてみてください。気づけば気づくほど「わたし」が消えていくと思います。それと同時に「寂しさ」や「不安」も感じるかもしれません。それと家族や友人たちへ今までどうりの感じていた距離間が消えていくかもしれません。見ず知らずの他人と友人・家族の距離が変わらないようになってきます。わかっているとは思いますが、あくまでも感覚での話です。この状態になったときに思考でその感覚を邪魔しないように「平静さ」を保つことを忘れずに!

    アニッチャーです(^^)

    ありがとうございます! Be Happy!

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    1. のび太さん、こんにちは。のび太さんのことは、何度か仲間からお聞きしています。
      コメントありがとうございます。

      はい、「私」への固着はとてもありますね。こういうことをブログに書いていること自体、私へのこだわりが強いんだと思っています(笑)。アニッチャへの理解、ドゥッカへの理解、そしてその先にアナッターへの理解があるといわれますが、私はまだ最初の2つもおぼつきません。

      でも、一歩一歩進んでいこうと思っています。

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kominka

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