2011年5月24日火曜日

食べ方=生き方

私が食べてる毎日のご飯のブログ。
これを付けるようになってコメントいただくことがあります。

「毎日こんなにたくさんの品数・・・」っていわれたりしますが、
よーく見ていただければわかりますが、私が日々作っている
のはたいていは1-2品だけなんです。

お野菜が届いた日などは時にはたくさんのお惣菜を
作ることがありますが、毎日なくなった分を作る、という
感じで作り足しているだけ。

日にちが経ってしまったお惣菜はお味噌汁にしたり
リメイクしたり。そんな感じなので、すごく時間を
かけてたくさん作っているようで、実は超省エネ。
ご飯を炊くだけで何もしないことも多々あります。

それから、よく聞かれるのが「マクロビなんですか?」とか
「ベジタリアンなんですか?」ってこと。

そうですよね~、最近の食日記を見ればそう思われるのも
ごく自然なこと。

確かにほとんど肉・魚・乳製品・卵を食べてません。
野菜と玄米、が基本。砂糖もほとんどとらないし。
(でも、今日はハーゲンダッツのクリスピーサンド
「バニラ」食べたよ~(*^_^*)、月に1度ぐらい食べ
たくなるのだ!)

なので自分でもこの質問にはどう答えたらいいんだろう?
としばし考えました。

私自身は「マクロビの食事法を実践している」とも、
「私はベジタリアンです」とも思ってない。

お肉食べたいな~と思うときあるし、そういう時はもちろん
食べます。お蕎麦食べるときは普通にそばつゆ美味しいな~
って思うし、むしろ子供のころから“かつおだしLOVE″は
人一倍。

10年ぐらい前に栄養療法勉強してた時に、すごく厳格な
制限食をしたことがあって、その時にずいぶんと疲れ果てたので
もう無理のある制限はめっぽう御免だと思ってもいるので、
意識して頭で食べる、というようなことはむしろ抵抗が
すごくあります。

それが、すっかり自然に家での食事がこんな風に
なっちゃった。自分でもものすごくびっくりなんですよ。
一番驚いているのは私、そして夫、というぐらい。


今、私がこういう食事になっているのは、体が楽なん
です。そして瞑想がとてもしやすい。

ただそれだけの理由。

反対に、今食べたいなとは自然と思わなくなったもの
を食べると体が軽くなるまでにしばらく時間がかかってしまう
ということ。

そういうものを食べたときは「あ~、やっぱり重いな~」
とか「ざわざわするな~」とか思ったりします。

なので家では自然と自分の楽な食事を作っている、という
だけなわけです。

そうしてみたところ、食べているものを眺めてみると
マクロビっぽいんです。だから「マクロビなんですか?」と
言われれば、答えに困る。そうじゃない、と言ったって、
そう見えますからね。

私はちゃんとマクロビオティックを勉強したことは
ありません。お惣菜を作ったり、体の手入れをする時の考え方の
参考にさせていただいてはいるので、本も何冊かは読みました。

共感するところ、とても多いです。
その通りだなあ、って思うことがたくさん本に書かれてます。

でも、どうしても自分の中で「私はマクロビを実践しています♪」
という気持ちにはならなかったんです。

最近夫と話をしていてその理由がやっとわかりました。


食事を整えるということは修行するうえで大変大事な要素の
一つです。

食事の内容で体の、そして心の状態は明らかに変化します。

自分の生き方を真剣に考える時、どう生きるか、と問うとき、
どう食べるか、というのはとても大事なテーマの一つです。

この事実を最近ひしひしと実感を伴って感じるんです。

しかし、食べ方を整えることは修行の要素の一つでしかない。
大きな一部分だけど、ほかの要素の中にある1つの部分。

今の私はその「食事」という一部分にのみフォーカスする
ことに違和感を感じているんだと思うのです。

親の病気をきっかけに、ある時期私は食事というものを
最大のテーマにして生きてきました。しかし、それ
だけでは「どうも違う」という違和感をずーっと感じても
きました。

紆余曲折を経て今私は「私が一生懸命に取り組んできた
『食事と健康』というテーマは人生の大きなテーマ『人格の
完成』のための一部分だった」ということを頭と心で納得
しました。

重要な、とても重要なパーツだけどそれは部分でしかない、
ということです。

とかくマクロビオティックは食事法のみが注目されていますが、
陰陽の原則をはじめとする宇宙の法則を知り、その中で人格の
完成を志す、という思想がとても大事な部分なのだと思います。
(私は本をかじっただけなので不正確ですみません)


私はヴィパッサナー瞑想法を修行し、自然の摂理を自分の経験から
学び、徳を積む生活を心がける、という生き方に惹かれています。

ヴィパッサナー瞑想では、体の感覚を感じる瞑想法をしますが、
この時、部分部分で感覚を感じ取ることと、体全体の感覚を
感じ取ること、の両方を常に行います。

そして、時には体の感覚を感じる順序を変えてみたりしながら
常に、もれなく自分の体の枠組み全体を観察する作業を続けます。
さまざまな方向から、冷静に、客観的に観察する。

「部分」と「全体」の観察の繰り返し。

この作業をすることの意味がようやく少しわかったのかと、
なんだかとてもうれしかったのでした。

この気づきをサポートしてくれたのは夫との会話、そして
彼の言葉でした。

一人ではここにはたどり着けなかった。
一緒に瞑想を修行していて本当に良かったと思う瞬間です。


部分部分を疎かにしないこと、しかし、部分だけに留まらないこと。

やはり中庸という生き方は深すぎてまだまだ修行が足りません。

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kominka

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