自分が思っていること、感じていること、をとにかくよく話します。
朝1時間の瞑想を終えた後の食卓で喋ることは、朝から結構濃ゆ~い内容であることが多く、そのトークから得られるインスピレーションはとても大きいです。
今朝のトークはこんなことでした。
私は普段とても理論派で冷静沈着で、理屈っぽいという印象をもたれることが多いのですが、実のところ私の行動を振り返ってみると、とっても感覚によって発動することが多い、のです。
自分にとって必要なことを嗅ぎ付けて、行動する。
家を買うのもそう、仕事で何をやるかを決めるときもそう。去年の春からしばらく仕事を休む、という決断をした時もそう。
「何かこれは良いぞ!」という感覚を受け取ったらもう自然に体は動くし、逆に「何かこれはおかしいぞ」と思うともう無理に体に言うことを聞かせて動かすことは不可能になってしまう。
人の行動はすべて潜在意識のもとで決められてるから、理屈は後付け。
意識は「自分がとった行動をどう説明するか」というだけのこと、というのがとてもうなずけるんです。
(「脳はなぜ「心」を作ったか」の本を最近読んで、我々が感じていたことが書いてあったのでとても納得しました。
それでもなお、私がとても理路整然と動いているように見え、はた目からは理屈、理論を外さない人間に見えるのか?
それは”検証”という作業を常にやっているからなのではないか?という話になりました。
感覚を感じて衝動的に行動をとる段階に至ると、私はそこでさまざまな検証をします。
”これは自分のライフスタイルと一貫性があるか”
”道徳律に反しないか?”
”これをやることで何を得られ、何を失うのか?”
”これをやらないことで何を得られ、何を失うのか?”
私はどちらかというと鳥瞰図的な見方をするのが苦手なので、時によっては夫や友人、その他の人たちのアドバイスを求めることも多々あります。
そしてそれが自分の感覚と違和感がなければ行動をとる。
そうやって感覚からの衝動に、ちょっとブレーキをかけて”検証”をしたあとにGO!となるときもあれば、検証の結果”やめる”という行動をとることもある。
これが私たちが理論派で理屈を外さないという印象をもたれる所以ではないか、ということに気が付きました。
あくまでも自分の出した結論が、自分の感覚と自分の検証に基づいていることがとても大事で、そこに他人の価値感などが強制介入していないことが大事。
バッチ博士はこのような言葉を残しています。
「他の人の干渉を許すことが、私たちに自分の魂の声を聞くのをやめさせ、不調和と病気を引き起こします。人の意向が心に入り込んだ瞬間、私たちは自らの本当に進むべき道から外れてしまうのです。」
嫌だなあ、と思うことを理屈で抑圧して続けることは自分を害します。かといって、嫌だと思うことにすべて反発しつづけることはそれも自分を害します。
それをありのままに受け入れ、そして平静心を失わないという技。
これを身につけられるのがヴィパッサナー。
この瞑想法で身につけていく技はやはり”生きる技”なのだ、と心底思います。
**************
今日は良い夫婦の日、だそうですね。
私たちにとって”良い夫婦”でいられるコツはたくさんおしゃべりをすること。
それぞれの夫婦にそれぞれの”コツ”があると思います。
それを大事にして、仲良く平和な家庭が築けると良いな、って思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿